その後、白洲やGHQが正力や野球連盟にどんな圧力をかけたのかは分からないが、加盟交渉は急にスムーズになり、11月26日にパ・リーグへの加盟を果たした。
球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目のシーズン開幕前の26年1月、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称した。そこで総監督に招かれたのが、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将、三原脩(1911~1984)だった。
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三原が目指したのは、九州にふさわしい豪快なチームだった。
球界屈指のスター選手で東急フライヤーズ所属の大下弘(通称・青バット)、中西太(怪童)、豊田泰光、高倉照幸、仰木彬-。三原は27年以降、後の黄金期を支える個性派選手を次々に獲得し、育てた。
29年に初のリーグ優勝を果たすと、稲尾が入団した31年からは3年連続のリーグ優勝と日本一に輝いた。
巨人軍に3連敗後、稲尾の4連投で4連勝し、逆転日本一に輝いた33年の日本シリーズは語り草となる。破天荒でドラマチックなチームは「野武士軍団」と称され、稲尾は「神様、仏様、稲尾さま」、三原は「魔術師」と呼ばれた。
ライオンズは西鉄の名を全国ブランドにした。西鉄の営業マンが東京や大阪で「サイテツさん」と呼ばれることもなくなった。