2013.12.13 23:59
「博多どんたく」で福岡市内線を走る花電車。大勢の市民が見物に足を運んだ=昭和50年5月、福岡市中央区(吉富実氏提供)【拡大】
「廃止は大変寂しいですが、明治、大正、昭和、平成と長年にわたりご愛顧いただきました。心から感謝申し上げます」
平成12年11月25日午後11時37分、西日本鉄道(西鉄)北九州線の折尾停車場(北九州市八幡西区)。第14代社長、明石博義(77)=現相談役=のあいさつに続き、路面電車がゴトゴトと地響きを立てながら動き出した。車内は約80人の乗客でひしめき合い、停車場周辺は約400人のファンが詰めかけ、ペンライトを振って見送った。
路面電車は深夜の街並みをゆっくりと進んだ。沿道では大勢の住民が人垣を作り、電車を見守った。終点の黒崎に到着したのは11時54分。これを最後に89年間続いた西鉄の路面電車事業は幕を下ろした。
「こんなにお客さんが乗ってくれたのは何年ぶりだろうか…」
運転士の安藤近二=現在72歳=はこうつぶやいた。
明治34年の官営八幡製鉄所(現新日鉄住金)操業により、日本有数の重工業地帯となった現北九州市は、戦後日本復興の原動力となり、高度経済成長期の昭和30年代には世界最大級の高炉が次々に建設され、活況を極めた。
安藤が18歳で西鉄に入社したのは、まさにその最中の昭和34年。黒崎や小倉、門司は活気にあふれ、西鉄北九州線は1日41万人が利用した。通勤・通学客が多い朝夕は1分間隔で運行しても全員乗り切れないほどで、運賃箱から小銭があふれ出すこともあった。
それから42年間、安藤は路面電車のマスコン(マスターコントローラ)を握り続けた。昭和40年以降はマイカーやバスに押され、乗客は年々減り続けた。西鉄は次々に路線を廃止、平成4年には折尾-黒崎駅前間の5キロだけになった。それでも市民の貴重な足だったことに変わりはない。
最終乗務の翌月に定年退職を迎えた安藤は、13年がたった今、当時をこう振り返った。
「北九州線は西鉄のルーツであり、栄光の歴史だったと今でも誇りに思っています。なくなったのは寂しいけれど、時代の流れでしょう。でもあの最後の乗務は今も忘れられません」
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西鉄の歴史は明治44年6月5日、日本有数の貿易港だった門司から、陸軍第12師団があり商業も盛んだった小倉を経由し、八幡製鉄所のある八幡までの18・1キロで路面電車を開通させたことに始まる。
「大きな港と商業地、工場がある。阪神電鉄のように成功するに違いない」
計画した川崎造船所(現川崎重工業)社長の松方幸次郎(1866~1950)は周囲にこう語った。松方の脳裏には、自らの拠点である貿易港・神戸と商都・大阪を結んだ阪神電鉄(明治38年開業)の存在があったに違いない。
明治41年12月17日、松方は博多の呉服商「紙与」の渡辺與八郎(よはちろう、1866~1911)とともに「九州電気軌道」を小倉に設立した。関西と福岡の財界人ら10人が共同出資し、筆頭株主は渡辺。第2の株主だった松方が社長に就任した。
西鉄は昭和17年9月、福岡県内の電鉄5社が合併して誕生した。その母体となったのが九州電気軌道だったため、西鉄史では松方が西鉄の初代社長ということになっている。
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一方、福岡市の路面電車のルーツは全く異なる。
明治40年ごろまで福岡・天神は黒田藩の城下町の外れの住宅街にすぎなかったが、明治43年3~5月に大規模物産展示会「第13回九州沖縄8県連合共進会」が開催されることが決まり、公共交通の整備が喫緊の課題となった。
「これを地域発展の起爆剤に」と意気込む福岡市長の佐藤平太郎(1861~1922)は路面電車敷設を計画したが、人口8万人程度(当時)の小都市では資金調達ができなかった。そこで、関西の財界人で福澤諭吉の婿養子の福澤桃介(1868~1938年)らに「何とか開幕までに電車を走らせてほしい」と泣きついた。
これを受け、関西と東京の財界人22人が出資して42年8月に設立したのが、「福博電気軌道」だった。福澤は社長に就任し、実務を取り仕切る専務に、腹心の松永安左エ門(1875~1971)=後に東邦電力総帥=を据えた。
松永は九州鉄道(西鉄天神大牟田線の前身)を建設したほか、九州電力や西部ガスの礎を築いた人物だが、福岡財界にデビューしたのはこの時。まだ33歳の若造だった。
福澤は、わずか7カ月間の突貫工事で九州帝国大学前(現馬出)-黒門橋間(5キロ)、博多駅前-呉服町間(800メートル)を結んだ。開通は明治43年3月9日、共進会開幕の2日前だった。路面電車の活躍により、共進会は2カ月間で90万人の来場者を記録し、天神が商都として発展する起爆剤となった。福岡市はまさに路面電車とともに発展した街なのである。
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同じ頃、福岡市では、福澤、松永ら東京・関西資本の電車に対抗し、地元資本主導で市中心部に循環電車を走らせようという動きが起きた。
その中心人物は九州電気軌道の創業者の一人でもある渡辺與八郎だった。渡辺は共進会開催中の43年3月31日に「博多電気軌道」を設立し、翌44年10月2日、博多駅前-住吉神社前-天神-取引所前(現博多区須崎町)の3・8キロを開業した。市長の佐藤に頼まれて市道上にレールを敷いた福澤と異なり、未整備地に自ら道路を作り、その真ん中にレールを敷いていった。
渡辺は循環線をさらに広げ、黒田藩の城下町である福岡と、平安時代から外国貿易の拠点として繁栄した商人街・博多を網の目のように路面電車でつなぐ構想を描いていた。福岡と博多は、那珂川を挟んで隣り合っているにもかかわらず、そりが悪く中々交わろうとしない。渡辺は「路面電車網を広げることで一体的に発展させたい」と考えたのだ。外様の福澤や松永らに対する地元の名士としてのプライドもあった。
渡辺のあまりの熱の入れように周囲は「紙与の財産まで失いかねない」と心配したが、渡辺は平然とこう答えた。
「今は採算が合わんけれども将来福岡が発展するためだ。財産でも命でも投げ出す。一生懸命やるから加勢してくれ!」
だが、過労がたたったのか、開業27日後の44年10月29日、46歳の若さで急逝した。同時に渡辺の夢はついえたが、福岡と博多を融合させ、繁栄の礎を築いた功績は大きい。渡辺が作った数々の道路のうち天神地区を南北に貫く目抜き通り1・3キロはいつしか市民に「渡辺通り」と呼ばれるようになり、市制80周年の昭和44年に正式名称となった。
福博電気軌道と博多電気軌道は昭和9年10月に合併して福博電車となり、昭和17年の電鉄5社合併で西鉄となる。
西鉄誕生時、北九州周辺での路面電車の営業距離は44・3キロ、年間乗客総数は1億800万人に上った。福岡周辺も営業距離25・6キロ、年間乗客総数8700万人。大牟田市内線(昭和27年までに全廃)などを含めれば、総営業距離は100キロを超えた。
戦後の復興期、その後の高度経済成長期になると、路面電車の乗客はますます増加し、昭和36年度の乗客総数は北九州1億6千人、福岡1億人で計2億6千万人を記録した。
市の中心部では、ラッシュ時の運行本数が1時間あたり80本という異常な過密ダイヤとなった。そこで西鉄は苦肉の策として1両が基本の路面電車を3両連結にし、他社を驚かせた。
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5月の連休の大型祭典「博多どんたく」。さまざまな衣装を着飾り、明治通りを練り歩くどんたくパレード以上に、福岡市民が心待ちにしたのは、「花電車」だった。路面電車を改造し、3千個の電球や造花を装飾したまばゆいばかりの車両は昼夜を問わず、市内を循環した。
日が暮れてからが見物だった。電車の姿は見えなくともレールに光の筋が延び、やがて光り輝く花電車がお目見えする-。その幻想的な姿を見ようと大勢の人々が沿道に列を作った。
花電車の歴史は古い。明治43年3月の福博電気軌道開通式には11台がパレードし、44年6月の九州電気軌道開業初日にも数台が走った。その後も昭和天皇即位の礼(昭和3年)などで北九州、福岡両市に登場し、祝賀ムードを盛り上げた。
戦況悪化に伴い、一時途絶えたが、終戦2年後の昭和22年5月3日、日本国憲法施行を祝うため、両市で復活した。
博多どんたくに合わせて運行が始まったのは昭和24年。この年の祭りのスローガンは「福岡の戦後復興を明るく照らそう」。花電車はこれを具現化したともいえ、市民を大いに勇気づけた。北九州市では昭和63年に始まった8月の「わっしょい百万夏祭り」で毎年運行されるようになった。
だが、昭和30年代末から始まったマイカーブーム、そして路線バスの拡大で、路面電車は次第に苦境に追い込まれていった。36年度に2億6千万人だった年間乗客数は、47年度には1億4千万人にまで減った。福岡市では48年から54年にかけて全25・8キロを廃止した。比較的利用者が多かった北九州線でも翌55年から順次廃止は始まり、平成12年までに全44・3キロが廃線となった。
路面電車の廃止後、どんたくと百万夏祭りの花電車は、トラックを改造した「花自動車」に代わった。だが、自動車用バッテリーで大量の電球を点灯させるのは限界があり、まばゆさが半減した。今でも「花電車だけでも復活させてほしい」と望む市民は少なくない。(敬称略)