日本初のコンビニエンスストアチェーン「セブン-イレブン」の出店と同じ昭和49年、大型店の出店を規制する「大規模小売店舗法(大店法)」が施行された。中小小売業とスーパーの双方に配慮した“玉虫色”の法律は時代の趨勢(すうせい)に合わせて形を変え、平成12年にその役目を終えた。大店法は流通業界に何をもたらしたのか。
■“玉虫色”の仕組み
「短い間ではあったが、商店街もスーパーの恩恵を受けた時期があった」
大阪中心部にほど近い天神橋三丁目商店街振興組合理事長の土居年樹(76)は昭和30年代初期をこう振り返る。スーパーは集客装置となり、スーパーで取り扱いの少なかった生鮮食品などを求めて消費者が近くの商店街を回遊した。しかし、スーパーが品ぞろえを強化し幹線道路沿いに店を構え、商店街の客足を奪うと、両者の関係は「対立」へと変化していく。
当時、百貨店の出店は許可制だったが、戦後新たに誕生したスーパーの出店を規制する仕組みはなく、中小小売業はスーパーの出店も許可制にするよう通産省(現経済産業省)に求めた。その結果、誕生したのが大店法だった。
戦後の流通政策の根幹は流通近代化と中小小売店の保護。それを踏まえ、大店法では1500平方メートル(政令指定都市などは3千平方メートル)を超える出店を届け出制にし、地域の商業者や有識者で組織する「商業活動調整協議会(商調協)」の事前審査を経ることとした。「運用次第で規制強化も緩和も可能」。元通産官僚の松島茂(64)=東京理科大大学院教授=がこう指摘するように、“玉虫色”の仕組みを作り上げた。
だが、施行と同じ年にオイルショックが起こり、景気は急速に落ち込んだ。それを機に地元商業者は軒並み大店法の運用強化に動く。出店表明から実際の出店まで5年、10年とかかるケースもあり、スーパーと商店街の対立は深まる一方だった。出店をめぐる紛争の長期化を受け、57年には通産省が出店抑制地域を指定するなど、大型店の出店は冬の時代を迎えた。
■閉鎖性示す象徴
食品スーパー最大手、ライフコーポレーションも埼玉県志木市への出店で強烈な反対運動にあった。その最中の平成2年、社長の清水信次(87)=現会長=は通産相、武藤嘉文に招かれ昼食を共にしていた。はしを止めた武藤は切り出した。「志木の出店を取りやめてもらえないか」
昭和56年の出店表明から9年が経過していたが、解決の糸口さえみえない状態だった。それでも、清水は武藤の言葉に首を縦には振らず、逆にこう切り返した。「大店法を変えるしか解決方法はありません」
大店法を問題視したのはスーパーだけではなかった。平成元年に始まった日米構造協議で、米おもちゃ専門店「トイザらス」の日本出店が難航していたことを問題視した米国が、日本市場の閉鎖性を示す象徴として大店法を取り上げ、規制緩和を迫ったのだ。
しかし、同じ年に消費税が導入され、商店街をあげた反対運動が巻き起こったばかり。通産省は「規制強化に走ってきたものを急には方向転換できない。運用適正化であれば商店街の納得も得られる」(当時の関係者)と判断。同年まとめた「90年代の流通ビジョン」で大店法の透明性を高める方針を打ち出した。
米国はあくまでも大店法廃止にこだわったが、160万店にものぼる中小小売業の反発を考えると廃止に踏み切ることはできなかった。結局、2年4月に出された構造協議の中間報告では、日本が大店法の改正と「改正後の見直し」を盛り込むことで米国が譲歩。日本は大店法を維持することには成功したが、運用改善、法改正、改正後の見直しの3段階での規制緩和を約束させられた。
■新時代の青写真描けず
大店法の見直しが進む中で、商店街の地盤沈下は進んでいた。1980年代に入るとモータリゼーション(車社会化)が進み、商圏は飛躍的に拡大。それに合わせて、大型店は郊外に営業拠点を広げ大型化を競った。こうした動きに対し、商店街は指をくわえてみているほかなかった。
「中小の小売業は植物のようなもの。根っこが生えていて動くことができなかった」。全国商店街振興組合連合会の理事最高顧問、桑島俊彦(72)は悔しさをにじませる。
商店街は大型店出店阻止に力を入れること以外、大型店に対抗するすべはなく、新しい時代の青写真を描くことができなかった。流通科学大特別教授の石原武政(70)は、出店阻止を目的とした大店法の不適切な運用が「商店街の近代化努力を遅らせる一因となった」と指摘する。
構造協議の中間報告に従って2年5月には大店法の運用を適正化する通達が出され、期限が定められていなかった出店調整に要する期間は最長1年半になった。4年には大店法が改正され、対象となる店舗面積が倍増となり、商調協も廃止された。大店法自体は12年まで残るが、この時点で大型店の出店は事実上自由化された。
これを機に、郊外への出店は加速し、大型家電量販店やショッピングセンターが相次いで誕生。客を奪われた商店街は、借り手のつかないテナントが並ぶ「シャッター通り」に変わり、特色を失っていった。
大店法の歴史では、消費者不在の議論が進められたことも否めない。出店自由化で、オーバーストア(店舗過剰)状態になった地域も出現。採算の取れなくなったスーパーが撤退し、近くに商店街もスーパーもない“買い物難民”も生まれるなど、消費者にしわ寄せが出ている。
郊外の大型店が地域の雇用を担う一方、商店街も地域密着のサービスを武器に復活の道を模索し始めた。商店街を保護する目的で生まれ、結果として競争力を奪うことになった大店法。廃止から10年あまりが経過した今、地域の担い手が誰なのかが改めて問われている。=敬称略(松岡朋枝)
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【用語解説】大規模小売店舗法(大店法)
中小小売業の事業活動機会の確保と小売業の正常な発達を目的に昭和49年に施行された。百貨店の出店を許可制とした「百貨店法」の対象をスーパーなど大型店に拡大。併せて許可制から届け出制に規制を緩和した。調整対象は店舗面積、開店日、休業日数、閉店時刻の4項目。平成12年に店舗周辺の環境や騒音対策に力点を置いた「大規模小売店舗立地法」が施行され、廃止された。