【高論卓説】「西郷どん」時代考証批判にうんざり ドラマをつまらなくする定説の押し付け
■脱「定説盲従」 大事にしたい独創性
林真理子原作、中園ミホ脚本のNHK大河ドラマ「西郷どん」の時代考証が物議を醸している。史実と違い過ぎるという。幼少期の西郷隆盛(鈴木亮平)は、島津斉彬(渡辺謙)と薩摩で会っている史実はない。江戸にいる斉彬がお忍びで薩摩に帰れるはずがない。西郷は酒が飲めないはずなので、斉彬と酒を飲み交わすのはおかしい。
西郷家と大久保利通(瑛太)の家は150メートルほど離れており、隣同士ではない。妙円寺参りは夜行われる行事なので、昼間のシーンはおかしい。西郷の3人目の妻、糸子(黒木華)は西郷と幼なじみのはずがない。
史実といわれるものとの違いを指摘する記事が山ほど掲載されているが、大きな違和感を覚えざるを得ない。大河ドラマは、いつから歴史ドキュメンタリー番組になったのだ。日本史講座でも、歴史解説でも、教養番組でも、ノンフィクションでもない、ドラマなのだ。それなのになぜ、史実を忠実に描くことに、躍起になるのだ。
幼少期の西郷が斉彬と会っていないはずだと言うが、間違いなく会っていないことが時代考証されているのか。西郷が斉彬に影響を受けていることを示す、これほど明快な設定や表現方法はないのではないか。斉彬は、いかにもお忍びで薩摩に帰ってきそうな人物ではないのか。酒が飲めないはずの西郷が、斉彬との酒席では飲むということもあってもおかしくない。西郷家と大久保家の距離が150メートルだったか、隣家だったかは、歴史学者からみれば重大問題かもしれないが、ドラマを楽しもうとする視聴者からすれば、どうでもよい問題だ。
このように思えてしょうがないのだが、時代考証という定説の押し付けが氾濫する。
そもそも史実は、古(いにしえ)の記録が発見された氷山の一角の事実を突き合わせた結果にすぎない。水面下には無数の、歴史学者さえも知りえていない出来事が山ほどある。ましてや、人の気持ちがどう動いたかの解釈は千差万別。人の心の動きに思いをはせて、作家や脚本家が自由に表現して、何が悪いと言うのだ。
一部の学者が唱えた定説の押し付けが、ドラマをつまらなくする。そして、この定説の押し付けは、ビジネスの場面でも山ほど見られる。私は、これがビジネス伸展を妨げている元凶だと思えてならない。
上司の発言に金科玉条、定理定説がごとく忠実に従う。会議では、上位者が発言するまで、発言しない。発言しても、上位者の顔色をうかがい、それを斟酌(しんしゃく)した発言や行動しかできない。アクションを起こそうとしても、すぐに周囲の反応をうかがい同調しようとする。
会議でも研修でも面談でも、あれが駄目だ、これも駄目だと駄目出しに終始したり、それは正しいこれは正しくないと既存の定説に沿って成否を判断したりしてばかりいるから、こうなるのだ。私が企業をサポートする際に、「どんな意見でもおっしゃってください」「お考えの途中でも聞かせてください」「異論や懸念を共有しましょう」と自身の内なる声を聞くことにこだわり続けているのは、定説への盲従から脱却するためだ。
史実に照らして問題だとどれだけ指摘があろうとも、時代考証が甘いとどれだけ批判があろうとも、これからも独創的な解釈で、奇抜な設定を繰り出していただきたい。こんな設定もあるのだ、それほど自由な解釈もできるのだという肌感覚を持ってもらうことこそ、ビジネスの伸展と革新につながるに違いない。明治維新の立役者、西郷隆盛を描くドラマの仕立てそのものが、維新の精神を伝えてくれることを期待してやまない。
【プロフィル】山口博
やまぐち・ひろし モチベーションファクター代表取締役。慶大卒。サンパウロ大留学。第一生命保険、PwC、KPMGなどを経て、2017年にモチベーションファクター設立。横浜国立大学非常勤講師。著書に『チームを動かすファシリテーションのドリル』(扶桑社)。55歳。長野県出身。
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