いきなりステーキ社長 ペッパーランチ事件から一転、成功収めた「賭け」

 

 2013年に銀座に1号店を出店し、わずか5年で187店舗に拡大したステーキ店「いきなり!ステーキ」。(夏目人生法則)

 「いきなり!」と言うが、肉が出てくる前に旨そうな匂いでやられる。肉は注文カウンターで、「リブロースステーキ」1グラム当たり6.9円、「本格熟成国産牛サーロインステーキ」1グラム10円など、量り売りで注文する。しばし待つと、ジュワーッという音とともに肉が出てくるが、前菜はサラダ程度、デザートはないから、顧客の平均滞在時間はランチで20分程度、ディナーでも30分程度しかない。

ここで少し、数字の話をしたい。

 飲食店の費用は、家賃、人件費、原価がそれぞれ売り上げの3割程度で、利益が1割程度が相場と言われる。だが、この数字は相場に過ぎない。

 仮に客単価3000円、10席、客が2回転しかしないステーキ店があったとしよう。1日の売り上げは6万円、家賃、人件費、原価はそれぞれ1万8000円で、利益は売り上げの1割、6000円となる。

 しかし仮に、900円の肉を半額の1500円で出したとしよう。原価率6割という「逆ボッタクリ価格」の上、立ち食いにして回転を早めたら、席が8回転したとする。売り上げは10席×8回転×1500円だから12万円。原価は10席×8回転×900円だから7万2000円。しかし家賃と人件費は変わらず1万8000円だから……。

 12万円-7万2000円-1万8000円-1万8000円=1万2000円

 あれ? お客さんに普段3000円で出す肉を1500円で出しているのに、利益は倍増しているではないか。

 これが創業者、一瀬邦夫氏の一世一代の発明だった。では、なぜこの発明がなされたのか?

ステーキ王の原点

 一瀬氏は戦争中の1942年の生まれ。母子家庭で貧しく、しかも母は病弱で、彼は子どもながら包丁を握り、よく母のためにみそ汁を作ったという。母が「今日のは格別だよ」と誉めてくれる時が、邦夫少年にとって最も幸せを実感する瞬間だった。多感な時期の一言は、聞いた人間の生涯を決定付けることがある。彼は高校を卒業し「もっと母ちゃんを喜ばせたい」と、東京・浅草の有名店のコックになった。

 入社した初日にも、彼の生涯を決定付ける出来事があった。優しい先輩に「好きなものを食べていいぞ」と言われ、彼は人生で初めて食べるビーフステーキをねだった。ところが……。

 「先輩は、あとで何か理由をつけ『ポークソテーにしなよ』と仰ったんです。すぐ先輩の気持ちは分かりました。ビーフステーキは僕の1カ月の給料と同じ、3000円だったんですよ。さすがにそれはまずいと思ったんでしょうね」

 夢中で豚肉を頬張った。しかし一瀬氏はこのとき「いつか熱々のビーフステーキを心ゆくまで食べたい!」とも願った。そして数日後、彼は厨房で、お客さんに出さない牛脂の切れ端を焼いて食べた。

 時代は高度経済成長の真っ只中だった。読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手が天覧試合でホームランを放ち、プロレスラーの力道山が大活躍したのはまさにこの頃で、日本人はみんな「豊かになりたい」と願っていた。そんな時代を背負って食べた牛脂の味は、一瀬氏の心に突き刺さった。

 「いやぁ……今も忘れませんよ。うまい、うまいなぁ! と、言葉も出なかったですね」

 実は彼、人間くさいエピソードには事欠かない。その後、懸命に働いた一瀬氏は、30歳を前に独立し、東京・向島でステーキ店「キッチンくに」をオープン。店は繁盛したが、彼はこの時、遊びの味を覚えてしまったという。

 好事魔多しとはよく言ったもので、店を終えるとついつい楽しげな店に足が向き、せっかくの資金を散財した。しかし、彼は頬を叩かれるより強烈なパンチを喰らう。

妻との思い出

「ある日スナックで酔っていると、私の行き付けをどうやって知ったのか、バッチリ化粧をした妻が店に来て、僕の隣に座るから驚きましたよ。しかも、彼女は怒るのでなく『私が綺麗にしてないから外で遊ぶんだよね?』と謝るんです。これで目が覚めないわけないじゃないですか」

 余談だが、この奥さんの話には続きがある。

 「40代の時には、飲食コンサルタントの先生に『奥様を店のスタッフから外すべき』と言われました。数店舗の経営であれば妻に頼ってもいい。でも『会社を大きくしたいなら社員教育も経理もプロの意見を聞くべきです。しかしそんな時、たいていは奥様が、今のままでいいじゃない、と反対し始めます』と仰るのです。そこで私が言われた通り妻を外すと、彼女はそれ以来、毎晩どこかへ出掛けるようになりました。知人に聞くと、なぜか銀座のすし屋さんで働いているらしい。

 私は夜、すし屋さんに妻を迎えに行き、理由を聞きました。すると妻は、『あなた、おすしはいいよ。肉と違って、熱々でなくていいから調理が難しくない』と言うんです。妻は、店を外されても私の店のことが気になって、飲食の仕事を学ぼうと外に働きに出たんですよ。彼女の強い想いを知り、私はすぐ『申し訳ない!』と謝り、翌日から店に復帰してもらいました。

 そんな妻が病魔に勝てず世を去ったのは、彼女が49歳の時でした。葬儀店の方が、妻を入れたかんおけを持って行ってしまう。私は『連れて行かないでくれ!』とすがりました」

 彼は「ああ、なぜもっと優しくしておかなかったんだろうと思いましたよ」と目を真っ赤にするのだった。

「ペッパーランチ」の創業

 そんな一瀬氏が起業家として名を馳(は)せたのが「ペッパーランチ」の創業だった。お客さんの皿に盛れる「価値」は、原価が掛かることばかりではない。ペッパーランチの売りはカンカンに熱した鉄板に、ライスと肉とソースをのせると、ジューッとえも言われぬ音と香りが立ちのぼる点だ。店はガス代が掛かる程度だが、お客さんにとってはたまらない。店は流行った。

 だが、落とし穴が口を開けて待っていた。東証マザーズ上場後、大阪のペッパーランチで当時の業務委託者が刑事事件を起こしたのだ。

 もちろん一瀬氏にとっては青天の霹靂(へきれき)だった。だが、彼は腹をくくった。自分が悪かった、と全責任を取ると決めたのだ。ならば世間を騒がせたことを謝罪しなければいけない。彼は記者会見を断行した。

 「あとで『一瀬さんが悪かったわけじゃないのに、何もそこまでしなくても』と言う人もいました。でも、私の脇が甘かったんです。そうやって責任を取るのが『経営者』なんです」

 何台ものテレビカメラが冷たく見つめる中、一瀬氏は深く頭を垂れた。

 「記者さんに『委託者の顔写真がほしい』と言われ『まだ起訴されていないのでお渡しできません』と言った以外、謝り続けました。会見終了時刻になると、隣にいた役員が打ち切ろうとしましたが、私は『質問が終わるまで会見は終えない』と言いました。最後のテレビカメラのスイッチが消えたのは、記者会見開始から2時間半後。すると、残った記者の誰かが私にこう言ったんです」

 「社長、大変でしたね」という言葉だった。

 「もちろん『私の責任です』と答えましたが、素直にこの言葉は身に染みました。できる限りのことをすれば、せめて誠意は感じてくださるのだな、と。だからこそ逃げちゃダメなんだ、と」

定石は“やりすぎ”によって覆される

 飲食店の原価だけでなく、人間の行動にも「相場」がある。しかし、彼はいちいち、思いの丈が相場より「過剰」だ。脂身を食べ旨さに言葉を失い、遊びに溺れたと思ったら生まれ変わり、ひとたび謝ると決めれば会見時間を延ばし頭を下げ続ける。

 そして実は、この過剰さこそが、彼の成功の理由だった。

 時代は平成20年代に移り、日本は豊かになり、人は「その次」を求めていた。そんな中、彼は立ち食いの「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」(運営は、俺の)で知られる坂本孝社長と話した。その瞬間、彼はこう考えた。

 「立ち食いで、ステーキ、出せないかなぁ」

 相場で言えば無理だった。だが、相場や常識は、過剰さによって破られる。日本人の食生活は、彼がビーフステーキの脂身を食べ、言葉を失った頃と一変していた。現在のビジネスパーソンは、お金があっても時間がなく「パッとステーキを食べたい」ニーズはあるはずだった。また生活スタイルが多様化し「一人焼肉」「炭水化物抜きダイエット」といったニーズも生まれていた。彼は冒頭のように、家賃や原価を弾いた。計算上は、成り立った。

 ただし、ビジネスは最後は「賭け」。常識人なら「とまあ、そんな考えもあるよね」と電卓を置いたかもしれない。しかし、彼には過剰な思いがあった。

 「やった理由って、いろいろあるけど、その最たるものは店にでっかく書いてありますよ。『炭焼きステーキは厚切りでレアーで召しあがれ!』って。旨いものを腹いっぱい食べるって、誰もが幸せを感じる瞬間じゃないですか。その瞬間を、僕は作りたかったんですよ」

 腹いっぱい食べてもらい「格別だったよ」と誉めてほしい! 人生、できる限りのことをしなきゃいけない! 逃げちゃダメだ! それが「経営者」なんだ! もう「もっと優しくしておけばよかった」と後悔したくない!

 もちろん、飲食業者にとって、一等地・銀座に店を出す数千万円は巨額だ。利益は1割。数億円売り上げてようやく捻出できる金額だ。でも「当たり前」は「過剰な思い」によって覆されるはず。ロジックは成り立っている。ならば、やるしかない! そう彼は決断した。

 そして、2013年12月5日。彼は銀座の店に長蛇の列ができるのを見た。報道が一巡してもお客さんは去らない。時代は彼を受け入れたのだ。

一瀬氏はこの経緯を彼らしい言葉で振り返る。

 「うれしいことはいっぱいあるよ。僕は母に『邦夫、コックになるんだったら、日本で5本の指に入るんだよ』と言われてた。それに匹敵することは達成できたかな、と思うと格別にうれしいんですよね」

 そう、世にはびこる「当たり前」は、こんな情熱、過剰な思いによってのみ打ち破られるのかもしれない。そもそも冒頭の計算は、電卓があれば誰でも1分もかからずできる。だが、これを実現できたのは--。

 「聞いてくださいよ。母は、僕にこんな言葉を残してくれたんです」

 取材中、そう言ってスマホを取りだし、目を赤くしながら音声再生ボタンを押す。いつも「過剰な」社長、一瀬邦夫氏だった。

 ■夏目人生法則 1972年、愛知県生まれ。早稲田大学卒業後、広告代理店入社。退職後、経済ジャーナリストに。現在は業務提携コンサルタントとして異業種の企業を結びつけ、新商品/新サービスの開発も行う。著書は『掟破りの成功法則』(PHP研究所)、『ニッポン「もの物語」』(講談社)など多数。