これは職人としての使命だ 被災地で大活躍、元祖「パンの缶詰」を作った男
提供:PRESIDENT Online最近よく見かけるようになった「パンの缶詰」。開発したのは那須塩原市にあるパン・アキモトだ。地元のホテルや旅館に普通のパンを納める一方で、1996年に缶詰を発売。2004年の新潟県中越地震で知名度を高めた。3年の長期保存が可能という「パンの缶詰」が生まれたきっかけとは--。
宇宙にも行ったパンの缶詰
被災地にこの人の姿と「パンの缶詰」を見かけないことは、ほぼない。
パン・アキモトの2代目社長にして、「パンの缶詰」(以下、パン缶)の開発者である秋元義彦(64歳)は、大きな災害に見舞われた場所に自ら赴き、その場で食べられるパン缶を被災者に無償提供し続けている。
2011年にはタイで起きた洪水の被災者に、13年にはフィリピンの豪雨、14年には広島市の豪雨土砂災害、15年はネパールの大地震、バヌアツのサイクロン被災、16年は今も記憶に新しい熊本大地震の被災やハイチのハリケーン被災など、秋元は世界を駆け巡り、人々を助けている。
同社の社会貢献は広く認められ、多数の受賞歴がある。たとえば12年には企業フィランソロピー大賞特別賞、14年には「日本で一番大切にしたい会社」大賞を受賞している。
パン缶の賞味期限は13カ月から最長37カ月まで。つまり最大で3年間の長期保存が可能だ。賞味期限が37カ月のパン缶はオレンジ、ストロベリー、ブルーベリーの3種類。焼きたてのパンのようにおいしく、やわらかい。備蓄用と思えないほどだ。賞味期限が13カ月の「定番人気シリーズ」ではチョコクリームやメイプル、はちみつレモンなどの味もある。
いまでは類似品も出ているが、パン缶の元祖は同社だ。価格は1缶400~420円で、現在、年間200万缶を出荷している。
09年には若田光一が国際宇宙ステーションに長期滞在する際、パン缶を持参して、乗組員の間で取り合いになるほど人気だった。
「宇宙に持って行ってほしいとずっと働きかけていて実現したのです。若田さんが“スペース・ブレッド”と呼んでくれたのはうれしかったですね」と秋元は笑う。
栃木県那須塩原市の田園地帯に本社を構える同社では、地元のホテルや旅館などに納める一般的なパンも作っている。現在では売り上げの4割が普通のパンで、残り6割はパン缶が占めるようになった。
20カ国を支援する「救缶鳥」プロジェクト
11年の東日本大震災では、那須塩原市も震度6弱の揺れに襲われ、大きな被害を受けた。パン・アキモトの工場も一部機械が倒れるなど操業に支障が出たが、秋元社長は真っ先に被災地に在庫のパン缶1万5000缶を運び、すべて無償で提供した。
その後、取引先に要請して、7000缶を寄付してもらい、それも被災地に届けた。さらに、仲間に呼びかけ、300万円を集めて材料を調達し、1000万円分のパン缶を送った。取引先への納入は後回しだったという。
福島原発事故では、風評被害で地元のホテル・旅館から客がいなくなった。パン・アキモトも通常のパンの注文が半減し、経営が苦しくなった。それでも秋元は支援をやめず、パン缶を被災地に送り続けた。
わが身を捨てて支援する秋元の思いは、次第に伝わっていった。テレビ報道などをきっかけに多数の義援金が集まるようになった。わざわざ200万円を届けに来た老夫妻もいたという。同社を助けるためにもパン缶を購入して被災地に送る企業や個人も増え、経営危機を脱することができた。
今でも秋元は月1回、パン缶を持って東北地方を回っている。仮設住宅などに住む被災者に手渡すためだ。被災者支援は秋元のライフワークになりつつある。仮設住宅の台所が狭くて、揚げ物ができないと聞くと、揚げたてのドーナツやメンチカツを振る舞おうと現地へフライヤーも持参したこともある。
パン缶は新たな社会貢献の仕組みも生み出した。備蓄用として購入されるパン缶は賞味期限が過ぎると廃棄されてしまう。あるとき、納品先の自治体から新しいパン缶を買うから、古いものを処分してほしいと依頼された。このままではせっかくのパンがゴミになってしまう。
その時、スマトラ沖地震で津波被害を受けたスリランカの知人から「古くてもいいからパンがほしい」と依頼があった。秋元は、それならば廃棄前にパン缶を引き取って送ればいいと気づいた。
ここから生まれたのが「救缶鳥」(きゅうかんちょう)プロジェクトである。パン缶で人を救うという意味だ。新しいパン缶を再購入することを前提に、取引先から賞味期限の切れる1年前、つまり購入2年後に古いパン缶を回収し、無償で国内外の困っている人に提供する。
救缶鳥は通常のパン缶容量の2倍で、再購入してくれる場合は、1缶当たり定価800円から102円を割り引くことにした。09年から始まり、ヤマト運輸の協力を得て回収コストを下げることができた。
缶にはメッセージを書き込む欄があり、被災者に励ましの言葉とパンを届けることができる。ラベルに企業名を印刷すれば、社会貢献活動のアピールにもなる。すでに多くの企業や自治体、学校などが救缶鳥プロジェクトに参加し、約300団体が備蓄する約30万缶が救缶鳥として提供されている。これまでの支援国は20カ国にのぼる。
阪神・淡路大震災をきっかけに開発
パン・アキモトは、1947年に秋元の父、健二が脱サラして創業した。健二は戦前まであった大日本航空の国際線無線通信士で、英語やフランス語にも堪能だった。敬虔(けいけん)なクリスチャンであり、敗戦後の食糧難に苦しむ人々を助けようとパン屋を始めた。
秋元は76年に法政大学を卒業後、都内のパン店で2年間修行してから家業を手伝うようになった。
パン缶を開発するきっかけは、95年に起きた阪神・淡路大震災だった。神戸の教会に健二の知り合いがいたこともあり、支援のためにパンを焼いて2000食ほど送った。ところが、届くまでに時間がかかり、3割ものパンを廃棄せざる得なくなった。
「廃棄することはパン職人として本当に残念で、被災地の人たちもおいしくて保存性のあるパンがほしいという声がありました。これはパン職人としての使命だと思い、保存できるパンの開発を始めたのです」
だが、それは簡単ではなかった。秋元は朝3時からいつものようにパン作りを始め、昼過ぎに終わると、保存できるパンの開発に取り組み始めた。最初は、ビニール袋で真空パックにするアイデアを思いついたが、パンがつぶれてしまい、袋を開けても元の姿に戻らなかった。冷凍保存も試したが、解凍するとぺしゃんこになった。
ふわふわ感やしっとり感というパンの風味を残したまま保存食にしたいという秋元の願いは無理かと思われた。そのとき、たまたま地元で缶詰作りの見学があり、ぴんときた。
「パンの缶詰にすればいい!」
だが、普通の缶詰とは違う。発酵させたパン生地を缶の中に入れて焼こうとしたが、内部が結露してパンが内側にべっとりとくっついてしまう。水分を取るためベーキングシートや和紙を敷いたが、なかなかうまくいかない。
どうしたらいいのかと秋元は頭を抱えたが、商社を通じて、ヨーロッパに耐火性と吸湿性を備えた紙が見つかり、ようやくパンの缶詰が完成した。開発に着手して1年半がたっていた。
缶の中にこの特殊紙を敷き、発酵させた生地を入れて、そのまま焼く。焼き上がり後、冷ましてから脱酸素剤を入れてフタをする。これで内部は無酸素状態となり長持ちする。
ベトナム、アメリカにも進出
96年に「カンカンブレッド」と名付けて発売開始したが、全く反響がなく、最初の1カ月間でたった1缶しか売れなかった。その後、2004年に新潟県中越地震が起き、秋元がパン缶を持参して被災者に届けたことが転機となった。一部の自治体でも備蓄していたパン缶を支援に回し、パン缶が現地で山積みになる光景がテレビで流れた。
学校給食でもパン缶が出され、現地に調査に入った専門家にもパン缶が配られた。これを契機に一気に知名度が上がり、災害備蓄用として多くの注文が入るようになった。
2015年にはベトナムのダナンに初の海外店舗を出店した。父・健二の「戦争で迷惑をかけた東南アジア諸国で償いをしたい」という願いをかなえたかったという。同社ではベトナムから3人の実習生をすでに受け入れており、パン作りを学んだ彼らが本国で働ける日も近い。
2017年2月からはサンフランシスコのパン店に委託して、パン缶の現地製造とテスト販売を開始した。近く米国食品医薬局の認可も取得予定だ。秋元は「将来的には救缶鳥プロジェクトもアメリカで試したい」と話す。
パン缶が父の思いをかなえ、国内外に笑顔と安心を届けている。
(文中敬称略)
株式会社パン・アキモト
●代表者:秋元義彦
●創業:1947年
●業種:パン・缶詰パンの製造販売
●年商:5億円(2017年9月期)
●従業員:60名
●本社:栃木県那須塩原市
●ホームページ:http://www.panakimoto.com/
(ジャーナリスト 吉村 克己 写真提供=パン・アキモト)
関連記事