売り場を減らしたのに、業績回復 なぜ崎陽軒のシウマイはバカ売れしているのか
《東京や新横浜で新幹線に乗ると、車内でビールを飲みながら「シウマイ」を食べているサラリーマンをよく目にする。崎陽軒の「シウマイ弁当」だ。駅弁市場は縮小しているのに、なぜシウマイ弁当は売れているのか。その理由を、同社の担当者に聞いたところ……。[土肥義則,ITmedia]》
東京や新横浜で新幹線に乗ると、車内でビールを飲みながら「シウマイ」を食べているサラリーマンをよく目にする。崎陽軒の「シウマイ弁当」だ。
出張帰りの楽しみのひとつに「駅弁」がある。例えば、仙台駅では「牛たん弁当」、広島駅では「あなごめし」を想像する人が多いかもしれないが、首都圏で最もよく売れている駅弁といえば「シウマイ弁当」である。
「『シウマイ弁当』なんて食べたことないなあ」という人もいると思うので、簡単にご紹介しよう。横浜名物シウマイの妹分として、弁当は1954年(昭和29年)に登場。折箱の中にはシウマイが5つのほかに、マグロの照り焼、かまぼこ、鶏の唐揚げ、玉子焼き、タケノコ煮、あんず、切り昆布&千切りショウガ、ご飯が入っていて、価格は830円(税込)。他の弁当で食べることができない食材が入っているわけでもないのに、1日に約2万1000食売れていて、いまだに出荷数が伸び続けているのだ。
驚くのはまだ早い。駅弁市場は縮小しているのに、崎陽軒の売上高は過去最高を記録しているのだ。2015年度は220億8199万円、2016年度も過去最高を更新する見通しだという。さらにさらに。売り場を減らしてきたのにもかかわらず、売り上げはぐんぐん伸びているのだ。
崎陽軒のシウマイはなぜ多くの人に愛されているのか。その秘密を探るために、同社で広報・マーケティングを担当している金田祐輔さんに話を聞いた。聞き手は、ITmedia ビジネスオンライン編集部の土肥義則。
駅弁を売るのに「横浜駅」は不利
土肥: 崎陽軒が創業したのは1908年(明治41年)。その年の出来事を調べてみると、移民に関する日米紳士協定が成立したり、ブラジルへの初の移民船が神戸から出航したり、フォードT型が発売したり。110年ほど前に、どんな商売を始めたのでしょうか?
金田: 横浜駅(現在のJR桜木町駅)構内に売店を開いて、そこで雑貨のほかに、寿司、餅、牛乳、サイダーなどを販売していました。
土肥: 当初、駅弁は売っていなかったのですか?
金田: はい。1915年(大正4年)に、現在の場所に横浜駅が移転したのに伴って、野並茂吉が支配人に就任しました(後に初代社長)。そのころはいわゆる“幕の内弁当”を販売していたのですが、焦りを感じていました。当時、小田原のカマボコ、静岡のワサビ漬など、大きな駅には名物となる食べ物がありましたが、横浜駅にはありませんでした。また、横浜駅の立地は不利だったんですよね。
土肥: どういうことですか? 横浜市の人口をみると、創業10年前の1898年は3万1000人に対し、1908年は2倍以上の7万8000人。10年後の1918年は9万人。以降も順調に伸びているのに、なぜ「横浜駅の立地は不利だった」のですか?
金田: 駅弁を売るのに不利な場所だったんですよね。東京発の乗客はまだお腹が空いていない。または東京駅で購入している。一方、東京に向かう乗客は駅弁を食べる時間がない。そんな状況の中で、どのようにすれば駅弁が売れるのか。そこで初代社長は、当時の南京町(現在の中華街)を歩いて、シウマイに目をつけました。列車の中で手軽に食べることができるのでうってつけの商品だったわけですが、冷えたシウマイはあまりおいしくありませんよね。駅弁で売り出すためには、冷めてもおいしいシウマイをつくる必要がありました。
南京町から職人をスカウトして、試作品づくりが始まりました。開始から約1年、豚肉に干しホタテ貝柱を混ぜ合わせることで、味に深みが増して冷めてもおいしさを持続することが分かってきました。また、揺れる列車の中で食べる状況を考え、女性でもこぼさずに食べることができるようにひとくちサイズにしました。そうして、1928年(昭和3年)に「シウマイ」を発売しました。
土肥: 売れたのですか?
シウマイ娘の登場で、爆発的に売れる
金田: 創業者は「絶対に売れる!」と自信があったそうなのですが、苦戦しまして。あまりに売れなかったので、社内からは「シウマイを売るよりも、違う弁当を売ったほうがいいよ」といった声がありました。でも初代社長はあきらめずに、あの手この手を打ちました。「一度でも食べてもらったらシウマイのおいしさを分かってもらえるはず」と考え、無料引換券を配りました。あと、シウマイの存在を知ってもらうために、飛行機からビラをまいたんですよね。
土肥: え、自宅の庭にゴミ……いや、失礼。ビラが落ちているわけですよね。そんな広告手法があったのですか? ワタシが子どものころ(1970年代)、セスナ機が音声テープを流しながら飛んでいたのは、記憶に残っていますが……。
金田: いまでは考えられませんが、当時は行っていたそうです。そうした手を打つことで、売り上げは少しずつ増えていったのですが、それでも「ヒット商品」といえるほどではありませんでした。そんな中で、爆発的に売れるきっかけがあったんですよ。1950年(昭和25年)に「シウマイ娘」が登場するんですよね。
土肥: シウマイ娘? 何ですかそれ?
金田: ある日、初代社長が銀座に足を運んだときに、タバコのPeace(ピース)を配っている女性たちを目にしたんですよ。その光景を見て、「女性が横浜駅でシウマイを販売すれば、世の中を明るくすることができるのではないか」と考え、「シウマイ娘」と書かれたたすきをかけて、女性たちがシウマイを売ることに。
当時、駅のホームで弁当や雑貨を売っていたのは男性ばかり。なぜかというと、たくさんの弁当を持ち歩くって重労働なんですよね。しかも、大声を出さなければいけない。さらに、列車の窓から受け渡しをしなければいけなかったので、背の低い女性には向いていない。そうした状況の中で、158センチ以上の女性に販売してもらうことに(時期により前後あり)。赤い制服を着用していたこともあって、とにかく目立ちました。しばらくすると「シウマイを買うなら、シウマイ娘から」といった感じで、話題になりました。
1952年(昭和27年)には、毎日新聞で連載された小説『やっさもっさ』にシウマイ娘が登場したんですよ。また、翌年に映画化されたこともって、「シウマイ」の認知度が一気に広がっていきました。このころになって、ようやく課題が解決しました。「横浜駅は駅弁を売るのに不利な場所ではなくなった」んですよね。
土肥: それまで東京駅や静岡駅などで駅弁を買っていたのに「いや、横浜駅にシウマイ娘がいるらしいぞ。彼女たちから弁当を買おう」という人が増えていったわけですね。
金田: はい。
「真空パックシウマイ」が誕生
金田: 次に「シウマイ弁当」を発売することに。1954年(昭和29年)のことですね。
土肥: 「シウマイ」を発売したときにはあまり売れませんでしたが、「シウマイ弁当」はどうだったのですか?
金田: 「シウマイ」の認知度が広がったこともあって、発売当初から弁当の売り上げは好調でした。その後も順調に売れていく中で、1967年(昭和42年)に発売した「真空パックシウマイ」が好評でした。横浜名物として「シウマイ」は売れていましたが、日持ちのいい商品ではありません。お客さんからは「遠くに住んでいる人にお土産として持って行きたいけれど、日持ちのいいモノはないの?」といった声がたくさんありました。
常温で長期保存ができる商品はできないか。当時、真空の技術は普及していませんでしたが、メーカーさんと一緒に共同で開発することに。完成後、どういう商品名にするか2代目社長が検討したところ、「真空」という日本語と、「パック」という英語と、「シウマイ」という中国語を使ってみてはどうだろうかということで、「真空パックシウマイ」が誕生しました。
土肥: えっ、ちょっと待ってください。真空とパックをかけあわせて、「真空パック」という言葉をつくったということですか?
金田: はい。「真空パック」という言葉……いまでは広く使われていますが、実は崎陽軒が最初に使いました。
土肥: な、なんと。ちなみに、商標登録は?
金田: していません。
土肥: うーん、もったいない。
金田: ただ、常温で長期保存ができるようになって、シウマイを遠くの人に知ってもらうきっかけになりました。
土肥: ちょっと意地悪なことを言うと、ワタシは大阪で生まれ育ったわけですが、関西で「崎陽軒」という社名はあまり浸透していないんですよね。認知度は横浜市民99%に対し、大阪市民は40%ほど(ドイ予測)。崎陽軒は知っていても、シウマイを食べたことはない人も多いと思うんですよ。いまでは横浜だけでなく、首都圏でも扱っているのに、なぜ名古屋、大阪、福岡といった都市で販売しないのでしょうか?
売り場を減らして売り上げを回復
金田: 全国展開の一環として、大阪に工場を造る計画などもあったのですが、実現できませんでした。また、真空パックシウマイを全国の小売店で販売していただいたのですが、お客さんからこのような声がたくさんありました。「横浜で『シウマイ』を買ったのに、近所のスーパーで売っているじゃないか。せっかく買ったのに、これじゃあお土産にならない!」と。
売り場の数はどんどん増えていったので、売り上げもどんどん上がっていました。でも、お客さんから反対の声があったので、会社は岐路に立たされました。このままナショナルブランドとして広げていけばいいのか。それとも横浜の地に根付いてローカルブランドとしてやっていけばいいのか。現在の社長がさまざまな人の話を聞いて、ローカルブランドとしてやっていくべきではないか。横浜の地にとどまって、目が届く範囲で、商品を展開していくべきではないか。といった考えにいきつき、いまでは経営理念に「崎陽軒はナショナルブランドを目指さず、真に優れたローカルブランドを目指す」と掲げています。
土肥: 全国展開はちょっと違うなあと痛感して、いまでは限定販売しているわけですね。売り場の数が減ったので、売り上げも減少したのでは?
金田: はい、減少しました。ただ、その後は徐々に売り上げが回復していって、2015年度は過去最高、2016年度も更新する見通しです。
土肥: 経営者であれば、会社を成長させなければいけない、売り上げを伸ばさなければいけない、顧客数を増やさなければいけない、といったプレッシャーがあるはず。「全国でじゃんじゃん売って」という方針を掲げて、その道を突き進むのが“正解”のように感じますが、崎陽軒は違った。
一度は全国展開の道も考え、売り上げの拡大を目指す。しかし、お客の声を受けて、「自分たちの価値はローカルにある」と認識させられたわけですね。売上減が予想される中で、あえてその道を選ぶ。結果、ブランドを守ることで、業績は回復していったわけですね。
もうひとつ、イジワルな質問を。シウマイって希少性はないですよね。崎陽軒のシウマイが売れていることが分かれば、競合他社もすぐに真似したのではないでしょうか。それでもシウマイが生き残った理由はどこにあると分析しますか?
シウマイのレシピを一度も変えていない理由
金田: やはり、長年ご利用いただいているお客さんが多いからではないでしょうか。例えば、食べ方にこだわりをもっている人が多いんですよね。シウマイ弁当のフタを開けて、なにから食べる? これはネット上でもしばしば議論になっていて、「オレはフタに付いたご飯粒から食べる」「いやいや、ワタシはマグロの照り焼」「自分はショウガをご飯にまぶす」といった声があるんですよね。
土肥: 「シウマイ弁当」という名前なのに、そのほかのオカズやご飯のキャラが強いわけですか。
金田: ちなみに、現在の社長は「ご飯から食べる」と言っていました。なぜかというと、「駅弁なので、ご飯がおいしくなければいけない」という考え方をしているからなんですよね。
土肥: 昔から食べているので、食べる順番が確立している人が多いのかも。だから「ああだ、こうだ」と言いながら議論が盛り上がるのかもしれません。シウマイはいまから90年ほど前に販売しているわけですが、その間、レシピは何度変えたのでしょうか?
金田: いえ、一度も変えたことはありません。
土肥: ロングセラー商品の話を聞いていると、「時代に合わせて味を少しずつ変えてきた」といった話をよく聞くのですが、シウマイの味は一度も変えていない? それはなぜですか?
金田: 駅弁がルーツだからですね。「このシウマイを食べると、家族で旅行をしたときのことを思い出す」「横浜へ出張に行っていたお父さんが土産に買ってきた」といった声が多いんです。旅の思い出と強く結び付いているので、味を変えることはできないんですよね。変えてしまうと、みなさんの思い出を変えてしまうかもしれません。
土肥: とはいえ、社内からは「いくらなんでも時代に合わせて味を変えようよ」といった意見はなかったですか?
金田: 全くなかったわけではないと思います。それでも「シウマイの味を変えてはいけない。サイズも変えてはいけない」という方針を守ってきました。ちなみに、経木(きょうぎ)の折箱も変わっていません。アツアツのご飯をプラスチックの箱に入れると、時間が経つと水分が出てくるので、ご飯がべしゃべしゃになる。でも木を使うと、その水分をうまく調整することがきるんですよね。時間が経っても、ご飯はモチモチしていて、冷めてもおいしく食べることができる。ということで、経木の折箱も絶対に変えてはいけません。
土肥: 変えないことでファンを増やしてきたわけですね。そして、その方針は今後も変わらないと。本日はありがとうございました。
(終わり)
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