日本の最先端技術は安全保障の領域から完全に遮断されていた
実際、この三四半世紀、安全保障面での日米科学技術協力は、日米同盟の運営上、稀に見る完全な失敗分野となった。日米同盟の真空地帯と言ってよい。
ミサイル防衛のような狭い防衛技術協力の話をしているのではない。量子やバイオのような安全保障に関わる最先端の科学技術協力がこの三四半世紀の間、全く動かなかった。米国には科学技術庁がない。日本の理研や産業技術総合研究所に相当する優れた研究所は国防省やエネルギー省に多数ぶら下がっている。
しかし、米国国防系の研究所との交流は文字通りゼロなのである。日本側に対応する組織がない。国立大学を始めとする学術界は軍事と名の付くものに生理的な拒絶反応を示し、官界もビジネス界も、マスコミから「軍産複合体」などと言われて叩かれることを恐れ、二の足を踏む。日本の誇る世界最先端の科学技術や産業技術は、安全保障の世界から完全に遮断されていたのである。
日本以外にはそのような断絶はない。逆である。最新科学は常に最新の軍事研究と裏腹であった。それは一流の科学者が集う世界の安全保障に関わる科学技術クラブの扉を、日本自らが固く閉ざすことを意味していた。
第二次安倍政権下の日本の国家安全保障局では、量子技術を始めとする民生技術の進展が将来の安全保障を激変させるとして、科学技術政策に関心を強め、「育て活かす政策」を「守る政策」と車の両輪にせねばならないという意識が日に日に強まっていた。
安全保障技術の推進に立ちはだかった日本学術会議
最初に手を打ったのは渡辺秀明防衛装備庁長官(初代)であった。
防衛省の技官は、戦後の強い平和主義の中で孤立した技術集団であった。彼らも民生技術の急速な進展が安全保障環境を急激に変えていることに危機感を抱き、「安全保障技術研究推進制度」を立ち上げて、なけなしの予算から100億円を積んで、学術界や産業界との研究交流を推進しようとした。安全保障技術研究推進制度は、研究内容に防衛省が介入することもなく、また、研究成果は自由に公開可能な研究交流制度である。
しかし、驚いたことに、内閣府の一員である日本学術会議が、突如、一方的に厳しい反対声明を出した。政府内の意見調整など全くなかった。その結果、ほとんどの国立大学(さらには私立大学)及び国立研究所が防衛省の交流の呼びかけに背を向けた。
日本学術会議は、制度上は内閣府の一員である。司法府のように独立しているわけではない。どうしてこんなことになるのかと訝(いぶか)ったが、経緯を調べていくうちに、日本学術会議は、吉田茂総理、中曽根康弘総理、安倍晋三総理という3代の大総理が、戦後、一貫して問題にしてきていた組織だと知った。
大学の自治、学問の自由という看板の陰に隠れて、イデオロギー的傾斜と国家予算から支出される大学運営費(年間8000億円)という巨大な既得権益の塊とが厳然と残っており、それが戦後三四半世紀の間、日本の科学技術と安全保障をほぼ100パーセント遮断してきたのである。(同志社大学特別客員教授 兼原 信克)
兼原 信克(かねはら・のぶかつ) 同志社大学特別客員教授1959年生まれ。山口県出身。1981年、東京大学法学部卒業。同年外務省入省。在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省国際法局長、内閣官房副長官補兼国家安全保障局次長などを経て、2019年退官。20年より現職。18年フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受勲。著書に『戦略外交原論』『安全保障戦略』(ともに日本経済新聞出版)、『歴史の教訓』(新潮新書)などがある。