道は人物由(よ)りて行くところの名なり 『中朝事実』
「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助が学んだ「山鹿(やまが)流軍学」の創始者で、儒学者の山鹿素行(1622~85年)は早熟だった。9歳で朱子学の大家、林羅山に入門。並行して神道や歌道を修め、軍学の大家、小幡景憲や北条氏長にも師事した。18歳にして儒教入門書『四書諺解(げんかい)』を完成させ、21歳で小幡から印可を受け『兵法神武雄備集』を著した。
そんな素行の下には桑名(現三重県)藩主、松平定綱や赤穂(現兵庫県)藩主、浅野長直らが入門した。承応元(1652)年、浅野家に仕官すると、江戸藩邸では兵学教授に就任。教育の傍ら『武教全書』や『修教要録』といった儒教、軍学、政治関係の書物をまとめた。
順風満帆のように見える素行であるが、40歳を超えたあたりから思想上の変化が生じる。朱子学への疑念が深まり、朱子学批判を通じて自らの儒教思想を体系的にまとめた『聖教要録』を44歳で発表したのだ。
ただ、これが朱子学を正統教学とする幕府、なかでも保科(ほしな)正之に忌避され、赤穂へ流罪となる。以後約10年を流謫(るたく)の身として過ごしたが、この間も素行は精力的に執筆活動にいそしんだ。
素行は、朱子学による解釈ではなく、孔子の言行録である『論語』など原典を直接理解すべきだとの復古的姿勢をとったが、復古で朱子学を否定しつつ、実は朱子学のパラダイムを利用して自説を縦横に展開した。この学派を「古学」といい、素行はこのような見地から日本のあるべき姿を説いた『中朝事実』や、武家の百科全書ともいえる『武家事紀』などを著し、思想を完成させていく。
正之の死去を機に赦免されて江戸に戻ってからは、講学にいそしみつつ自伝となる『配所残筆』を著し、無位無官のまま64歳で死去した。本来は政権中枢に近い立場での活躍や出世に関心があったにもかかわらず、「古学」の主張でそれを失った。そうせざるを得ないほど、内面の思想的主張が強かったのだ。
朱子学以前の儒教への回帰を説く古学派の中でも、素行は一気に孔子や孟子に帰ることを求めた。同時代に古義学を立てた伊藤仁斎らも同種の主張をするが、素行の独自性は自身の学問を徹底した「実用の学問」と定義したことにある。
実用とは何か。それは冒頭に引いた「道とは人や物がそれに沿うことでもっとも合理的であることを指した名である」との言葉に集約される。
木や石を細工するのに最も適した方法や道具があるように、人が生きる上で最も適した方法が道である。その道に沿って生きれば、人は家庭から社会まで、あらゆる場面で良い人倫や仕事が作れるものであり、それはどんな人でも行えるものでなければならない。
朱子学のように観念的な議論を行い、精緻な文献読解を要求する学問では万人が理解できるわけもない。したがって素行は仁や義といった徳目を、人に対する思いやりや正義感といった心情に落とし込み、そうした心を持つ人は常に自分の立ち位置と、要求されるあり方をわきまえ、その立ち位置やあり方になりきることで、心も純粋に良くなっていくと説いた。
つまり、人の成熟は仕事の成果がどれだけ出ているか、立ち位置をいかにわきまえて役割分担できているか、平たくいえばまともな人間関係が構築でき、仕事ができ、家族や友人、同僚から信頼されているかどうかで判断されるのである。
素行の説く古学は整然たる指揮系統や実用的な戦術を重んじる兵学と相性が良かった。素行の考える「日本」を説いた『中朝事実』も日本が世界に優れた国である理由を、この役割分担と立場ごとのあり方が明確であることにあると説く。
素行は言う。
「たとえ君主であっても道に則って天下を制御できない者は、君主ではない」
『中朝事実』は日本こそが中国(中華)であるといった言葉が強調されるため、その本質を誤解されてしまいがちだが、中国であるためには他国よりも要求されるハードルが高い。自己主張を押し通すことは君主であっても許されない。乃木希典が殉死の直前、裕仁親王(後の昭和天皇)に『中朝事実』を献上した意図も実にここにある。
素行が出世を断念してまで古学を説き、日本の優越性を断言したのは楽観的な日本賛美ではない。役割分担の思想を通して、日本の良さを明らかにしようという、緊迫した意志があったのである。
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大場一央(おおば・かずお) 昭和54年、札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。