ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはキリスト教に理解を示す武将には高い評価を与えたが、逆に信仰を妨げる武将には厳しい評価を下したことで知られている。以下、フロイスから蛇蝎のように嫌われた大名を紹介しよう。
1.毛利元就(1497~1571)
毛利元就が本拠とした安芸国は、浄土真宗の信仰が根付いていた(安芸門徒)。むろん、元就も熱心に浄土真宗を信仰しており、キリスト教徒は縁がなかった。
一方、大内氏の領国・周防ではキリスト教の信仰が認められていたが、弘治元年(1555)の陶晴賢(大内氏家臣)の滅亡後、周防・長門は元就が支配することになった。
元就の意向もあり、周防・長門におけるキリスト教の布教は難しくなった。ゆえにフロイスは元就を「悪魔」と称して論難したのである。
ただし、元就の孫で後に久留米城(福岡県久留米市)主となった秀包は、大友宗麟の娘を妻に迎えたこともあり、熱心なキリシタンとなった。
秀包の洗礼名はシマオ。城下には天主堂が建設され、多くのキリシタンが集住したと伝わる。ゆえに、秀包は「宣教師の偉大な友」と称された(『日本切支丹宗門史』)。
また、小早川隆景もキリスト教に理解を示し、伊予を支配した際には、道後に教会を建てることを認めている。それゆえフロイスは、隆景に最大の賛辞を贈った。
同じ毛利一族であっても、キリスト教を信仰する(あるいは、布教に理解を示す)かによって、フロイスの評価は大きく変わったのである。
2.長宗我部元親(1539~99)
天正2年(1574)、長宗我部元親は土佐一国の支配を果たし、それまで土佐国内に強い影響力を持った一条兼定を豊後国へ追放した。
翌年、大友氏の庇護下にあった一条兼定は、キリスト教に入信した。洗礼名はドン・パウロ。兼定に強い影響を与えたのは、イエズス会の日本布教長・カブラルであったという。
フロイスによると、キリシタンとなった兼定は娘を入信させた。兼定は土佐一国を再び手に入れた暁には、土佐をキリシタンの基盤とする強い決意を有していたという。
しかし、天正3年(1575)に大友氏の援軍と土佐に出陣した兼定は、四万十川の戦いで元親に無残な敗北を喫した。その後、兼定は隠遁生活を送ることになった。
同時に、フロイスが描いた夢も潰え、元親はキリスト教の布教を阻む存在となったので、酷評されたのである。
なお、兼定は宣教師のヴァリニャーノと懇意にしており、ヴァリニャーノは兼定の信心深さに感嘆していたと伝わっている。
3.武田信玄(1521~73)
武田信玄は仏教に帰依しており、元亀2年(1571)に織田信長が比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を焼き討ちにした際、甲斐へ逃れた覚恕法親王(後奈良天皇の子)を庇護下に置いたほどである。
覚恕は信玄に仏法の再興を託し、翌年に権僧正の位を授けた。実のところ、信玄は不動明王などの神仏を信仰し、日本古来の宗教に傾倒していた。
フロイスの言葉を借りれば、1日に3回は偶像(仏像)を拝むほど、熱心であったという。もちろん、フロイスは偶像崇拝を忌み嫌っていたに違いない。
また、フロイスが言うには「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。「戦争においてはユグルタ(紀元前2世紀のヌミディア王で戦争が得意だった)に似たる人」と評価されていた。
信玄が熱心に神仏を信仰した理由は、隣接する諸国を奪うことにあった。それは、寺社に対する戦勝祈願を意味していたのである。
一神教であるキリスト教は偶像崇拝を認めず、また信玄はキリシタンになる余地がなかったようだ。そのような事情もあり、信玄はフロイスにとって好ましくない人物に映ったようである。それゆえフロイスは、信玄を酷評したのである。
4.松永久秀(1508?~1577)
松永久秀は、法華宗に帰依していたことが知られている。永禄8年(1565)、三好三人衆らの襲撃により足利義輝が横死すると、久秀は法華宗の僧侶から多額の金銭を送られ、京都から宣教師を追放した。
法華宗が宣教師の追放を久秀に求めた理由は、単にキリスト教だけでなく、仏教の他の宗派すら嫌っていたからだろう。久秀がキリスト教を嫌っていたか否かは、判断が分かれるところだ。
フロイスは久秀を評して、狡猾ではあるが、博識であり支配者としての才覚があると評価している。永禄4年(1561)段階においては、久秀を五畿内における最高権力者と認識し、天下を掌中に収めたとも述べている。
フロイスから見れば、久秀はもっとも過激な仏教の宗派・法華宗を信仰していたので不満な点があったかもしれないが、権力者であるので従わざるを得なかったと考えられる。以後のことを考えると、妥協せざるを得なかったのである。