天道(てんとう)とは、神にもあらず、仏にもあらず、天地のあいだの主にて、しかも躰(たい)なし『本佐録(ほんさろく)』
徳川家康の側近、本多正信(1538~1616年)は影の参謀役といったイメージが強い。家中を二分した三河一向一揆では一揆方につき出奔。長い放浪をへて帰参した。家康が悩んでいるのを察してそれとなく進言したり、家康の暴言を訓令に潤色(じゅんしょく)して家臣の面目を守るなど逸話は数多いが、一度は裏切った正信を取り立てたのは、2人の人間的な信頼があったからであろう。
帰参組の正信を快く思わない家臣は多く、徳川四天王の一人、榊原康政は、正信の顔を見ると腸が腐ると憎んだ。しかし家康は康政を切ってでも正信を重用した。康政は政務・軍務に多大な功績を挙げたが、関ケ原後は加増もなく没した。一説には「功臣が居座るのは亡国の兆し」と加増を辞退したとも伝わるが、いずれにせよ四天王クラスの名臣が退いた後でも、正信を重用した意味は際立つ。
正信が著したとされる政治書に『治国家根元(ちこっかこんげん)』と『本佐録』がある。両書は相互補完し、実用的な政治論を展開する。ただ、『本佐録』については、内容に類似点が多い訓戒書『仮名性理(かなせいり)』を著した当時随一の儒学者、藤原惺窩(せいか)の手によるものであろうことが研究によって明かされている。それでも、正信の著作として流通していたことは当時から「本多正信」という名に、そうした知恵があったと思われていたことを示すものだろう。
『本佐録』には「百姓は財の余らぬように、不足なきように治(おさむ)る事道也(ことみちなり)」との一節がある。
これはいわゆる「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」との思想を象徴したものとして、幕府による農民抑圧の象徴とされてきた。しかし、それは特定のイデオロギーからのゆがんだ解釈であり、本旨は全く異なる。
ことは簡単で「生かす」とは「やりたい放題する」という意味であることを理解すればよい。要するに「百姓があまりに裕福になると、おごりを生じて怠惰になり、生産という本分を忘れてしまう。かといって搾り取って殺すのは論外だから、収入と課税を適切なバランスにすることで、安定した生活モデルを保証してやらねばならぬ」という議論なのだ。
また『治国家根元』では「民を哀(あわれ)み玉(たま)ふ心ありと云(い)へども、其(そ)の哀む政(まつりごと)なければ益なし」とする。
これは赤字補塡(ほてん)のために増税することを「節約を推奨する」と称し、さながら民間から搾取するような政治を、政府の無駄遣いの帳尻合わせに過ぎないとし、「国の本」である民を殺す政治は「天道」に憎まれると説くものだ。
これらで展開されている議論は、国民が怠けず腐らず、職業の役割を全うできるようにするために、収入と税を均衡させることの重要性を説く点では表と裏の関係にある。
役割を全うするという姿勢は何も百姓にだけ適用されるものではない。職業における適切な収入と生活モデルを考え、公正に政策を行うことが政治家の役割であり、それを外れれば武士もまた責められることとなる。
こうした立場ごとの役割をしっかりと理解した上で、職業を通じてみんなで社会を作っていくという世界観を示したのが『本佐録』であり、その根拠として「天道」が示された。
天道とは、神でも仏でもない。世界をつかさどる主でありながら、形がないのである―とする標題の言葉は、これまで道徳や運命の責任を、神や仏といった超越的な対象に求めていた人々に、「他の誰でもない。政治家から民に至るまで、一人一人の生き方が役割に徹してうまくかみ合っていれば幸福になり、勝手気ままなら不幸になるという法則があるに過ぎない」と宣言したものだ。
これに、同じく家康側近で、四天王と称された本多忠勝の言行録『本多平八郎聞書』の内容を重ねれば、「天道」によって家康と正信、そして惺窩の思想までが一つに重なっていることに気づく。
「天道」は朱子学によって「理」と言い換えられる。一人一人の生活にフォーカスした思想を儒教が理論化することで、その合理性はますます強まった。
三河時代から江戸幕府の草創期まで固い信頼関係で結ばれていた家康と正信は、思想面でも連携して日本の近世を作ったのである。
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大場一央(おおば・かずお) 昭和54年、札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。