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「熱い志」胸に「看護力」底上げに挑む 笹川記念保健協力財団 喜多悦子理事長
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数多くの国際医療の現場を踏み、今年度から笹川記念保健協力財団の理事長を務める喜多悦子さん(74)。7月には、長年の国際医療への貢献を評価され、外務大臣賞を受賞した。
「珍しいもの食いでやってきただけ。海外での医療活動といっても仕事として行っただけで、NGOの人たちのように自発的に行って苦労したわけではない。出張で行って仕事するのは当たり前のことやからね」
照れながら答える言葉の端々に関西弁がのぞく。
兵庫県宝塚市出身。子供のころに終戦を迎え、日本が民主主義にがらりとかじを切る変化を経験した。
当時から米国への憧れや海外への興味はあったが、高校生のとき、米海軍軍医、トム・ドゥーリーの伝記を読んだことが人生を決めた。医学部を志し、「いつかは国際活動をしてみたい」と夢を抱いた。
しかし、実際に国際活動を始めたのは44歳という遅咲きだ。
「教授選に負けて、仕事がなくなっちゃったときに、たまたま中国の病院で働かないかという話をいただいたのが、国際医療に入ったきっかけ。教授になっていたら、私の国際医療の道は見えていなかったと思います」
1980年代の当時、政府は日本人が世界中に出て行き国際貢献をすることが必要だと考えていた。海外での医療活動が行える医師をそろえるために設立された国立国際医療研究センターに所属し、中国の中日友好病院に赴任した。88年には、日本で初めての紛争地支援として、パキスタンに派遣され、アフガニスタン難民の医療活動にあたった。
しかし、30代の若いNGOや国連スタッフに囲まれて、50歳手前の女性医師は苦戦した。
「病気についてであれば、私ほど知っている人はいない。でも、うまく働けなかった」
英語力の問題かと考えたが、違った。紛争地で必要とされていたのは、集団を診る「パブリックヘルス(公衆衛生)」。個人を対象に行ってきたこれまでの医療だけでは、紛争地に対応できなかったのだ。公衆衛生の重要性とともに、現場での経験の大切さを実感した。その後も、世界保健機関(WHO)や日本赤十字社で、国際医療の仕事を続けた。
爆撃を受けた村で、瀕死(ひんし)の人が放置されていた。ヒゲを生やさないという理由で、イスラム原理主義者に殺された同僚医師もいた。そんな過酷な現場を経験してたどり着いた次の現場が「教育」だ。
2001年、日本赤十字九州国際看護大学(福岡県宗像市)の教授となり、05年から学長に。「国際」をうたった唯一の看護大で、“内向き”といわれることも多い若者に、こんな言葉をかけてきた。
「生まれる場所は選べないのに、私たちはどこで生まれたかによって格差を押し付けられている。もし自分が別の国に生まれていたら、と考えてほしい。そうすれば外国と日本のバリアは低くなる」
留学生も多く在籍するキャンパスを巣立った学生は、「外国人だからと構えることはない」と、物おじしない。国際結婚する卒業生も多いそうだが、「外国も日本も一緒という意識を持ってとは言ったが、外国人と結婚せぇと言ったことはない」と苦笑する。
自身もこの春、大学を“卒業”。看護師を養成してきた経験を生かし、新しい職場となった笹川記念保健協力財団では、在宅看護など「看護力」の底上げに挑戦するつもりだ。
国際医療に携わる原点となった中国へ赴く際、2人の恩師からもらった言葉を今も大事にしている。
「札びらを切って相手の国を動かすやり方では、心を従わせることはできない」「何もないところで何かをするのが君の力だよ」
何かを成すには「熱い志」が必要だと実感している。小児科から国際医療、看護師育成とバラバラの道のように見えるが、熱い志を胸に歩き続けてきた。次の現場でもそれは変わらない。(文:道丸摩耶/撮影:大山実/SANKEI EXPRESS)