台湾の空気がぐらっと揺れた。台湾で政治や経済に関わっている誰と話しても、動揺が伝わってきた。中国の新しい台湾政策「恵台31条」が2月末に国務院から発表された数日後、台湾を訪れたときの感覚だ。
過去にも中国による「恵台政策」は何度も表明された。「恵台」は台湾の中国市場への参入に特別待遇を与えるという意味であり、「譲利(利益を譲る)」政策とも呼ばれる。基本的に対台湾統一工作の一環だ。
ただ、今回の「恵台31条」は31項目にわたる規模や狙いの深さが、過去のものといささか違っていた。内容は「一帯一路」などの国家主要プロジェクトへの参画に加えて、若者の中国での就学・就職、娯楽・文化産業の中国市場参入に、広く道を開いていることが特徴である。
台湾きっての中国通の記者である中央通信社の朱建陵さんと食事をしながら意見交換をしていたとき、彼は目の前のコップをぐいっとつかみ、中の水をストローで吸ってみせた。
「中国はこういうことをやろうとしている。優秀な人材を全部持っていってしまおうということ。恵台はイコール吸台だよ」
民進党の蔡英文政権が発足してから間もなく2年。中国が求める「一つの中国」を受け入れない蔡英文氏に対して、中国は「未回答の答えがある」といって批判した。中台の交流は冷え込んだが、激しい衝突もない「冷和(冷たい平和)」状態が続いていた。
だが、朱さんは「これからは冷和から冷対抗の時代になる」という。その中国の最初のアクションが「恵台31条」というわけだ。
台湾にメリットを与え、取り込んでいく方向は中国に好意的だった国民党・馬英九時代と変わらない。しかし、その対象は、馬英九時代が主に台湾の政財界であったのに対して、今回は台湾人の若い世代を対象にした。彼らを支持基盤とする蔡英文政権はすぐに反応し、「最終的に中国を利するもので、統一工作の一環だ」と警戒した。
背後にあるのは2014年の「ひまわり運動」と、その後に起きた国民党の雪崩式の敗北だ。台湾の有力企業や経済人、政治家を取り込んだところで、20~30歳あたりのひまわり世代などに広がる脱・中国の潮流は変えられない事実を中国は突き付けられた。そこで打ち出したのが今回の「恵台31条」というわけだ。
台湾というグラスをつかんだ手は放さない。人材という中身を吸い上げる。民進党を選ぶ以上、台湾にはサービスはしない。もうけたければ大陸に来い、その時は歓迎しよう、という横綱相撲的な態度である。
習近平国家主席が権力基盤を固め、台湾に強硬策を用いるとの観測もあったが、「恵台31条」には長期戦を想定してどっしり構えた中国の覚悟を感じる。だからこそ、台湾社会は静かに動揺したのだといえる。
今、台湾社会も日本同様、低成長の時代にあり、失業や低賃金の問題に苦しんでいる。若者の間には絶望感や無力感も漂う。良い暮らし、良い仕事、良い家庭を求めるのは人間の本能だ。中国はそこを突いている。
ただ、民主と自由しか知らない環境で育った台湾の若者たちが、中国で仕事や勉強をしたとしても、一党独裁の中国に好感を抱くかどうかは別問題である。台湾では国民党の弱体化が進み、民進党の天下はしばらく続きそうだ。中国と台湾の「冷対抗」が長引く情勢の中、この「恵台31条」の効果がどう表れてくるか、慎重に見極める必要がある。
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【プロフィル】野嶋剛
のじま・つよし ジャーナリスト。朝日新聞で中華圏・アジア報道に長年従事し、シンガポール支局長、台北支局長、中文網編集長などを務め、2016年からフリーに。49歳。『ふたつの故宮博物院』『銀輪の巨人 GIANT』『台湾とは何か』など著書多数。