パナソニックと中国の関係は、松下電器産業時代の1978年10月、大阪・茨木の工場で、創業者の松下幸之助氏が、中国の近代化路線を進めるトウ小平氏(当時副首相)を迎えたときから始まる。
電子工業分野の近代化を重視していたトウ氏が「教えを請う姿勢で参りました」と切り出したのに対し、松下氏は「何であれ、全力で支援するつもりです」と全面的なバックアップを約束した。
松下氏は、改革・開放路線の黎明(れいめい)期に日中経済協力に踏み出した功績で、中国では「井戸を掘った人」とたたえられてきた。
同社が87年に北京で設立したカラーブラウン管の合弁工場は天安門事件前後の戒厳令下でも操業を続け、当時の中国指導部から謝意を表されていた。
トヨタ自動車も、まだ旧ソ連製をのぞいて外国車がめずらしかった80年代初期から中国で知名度を誇ってきた。トヨタが当時、中国国内で使った広告のコピーは、政治以外に「宣伝」のイメージを持たなかった中国の消費者に鮮烈な衝撃を与えた。