2014.2.25 05:00
□舞台になった「九段会館」の運命は
10日ほど前の大雪の夜、東京メトロ・九段下駅で地下鉄を降りた。九段会館が、どっしりとそびえていた。闇と雪にかすむ明かり一つみえないビルは、天守閣風の屋根と相まって、朽ち果てた古城の趣だった。
寒さを忘れて、しばし足を止めて眺めていたら、1936年、やはり大雪の中で起きた二・二六事件を連想した。
生まれるずっと前の事件を想起したのは、やはり大雪の中での出来事であり、この建物が、その重要な舞台の一つだったことを知っていたせいだろう。
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決起部隊が陸軍省や参謀本部など軍中枢部を占拠したため、当時、軍の福利厚生施設で「軍人会館」と呼ばれたここに戒厳司令部がおかれた。鎮圧作戦の本拠だ。
「…今からでも決して遅くはないから、抵抗をやめて軍旗の下に復帰せよ」と、原隊帰順を呼びかける有名な「兵に告ぐ」も、会館の臨時スタジオから放送された。
その年の寒波はおそらく今年以上だったのだろう。東京での降雪は、事件の数日前から続いていたという。当時の軍人会館もこんな風景だったのだろうか。
二・二六事件には多くのドラマがある。なかでも、反乱部隊に襲撃された岡田啓介首相が官邸から逃れる場面は奇跡というほかはない。本やテレビなど、さまざまなところで紹介されているので、詳細は避けるが、女中部屋の押し入れに隠れて一昼夜を過ごした首相は、憲兵と秘書官の手引きで、弔問客に紛れ、反乱部隊の目の前を通って脱出した。手に汗握るという月並みな表現が、ぴったりするのは小説以上だ。
岡田首相が隠れていた女中部屋があった旧首相官邸の公邸部分は、新官邸が完成して旧官邸が新公邸になったのを機会に取り壊された。
考えてみれば、首相官邸に限らず、事件ゆかりの場所の多くが時代の変遷の中で姿を消し、または形を変えてしまった。
反乱部隊の主力は帝都防衛の中心、歩兵第1連隊(歩1)と同第3連隊(歩3)だった。六本木にあった歩1は、戦後、長く防衛庁(現防衛省)が使い、2000年に市谷に移転した。その後は「東京ミッドタウン」として賑わいをみせている。
その向かいにあった歩3跡には、東大生産技術研究所などが入り、いまは国立新美術館になっている。
一部の決起将校は、赤坂の山王ホテルや「幸楽」という名の料亭などに立てこもって、最後まで鎮圧への抵抗姿勢を見せた。ちょうど、赤坂見附の先から日枝神社の鳥居に至るあたりだ。
山王ホテルは、戦後米軍用に接収され、いまは、「ニュー山王ホテル」として麻布に移転している。
決起部隊の将校らが非公開裁判にかけられ、死刑が執行されたのは東京陸軍刑務所。渋谷区役所、渋谷税務署のある界隈(かいわい)で慰霊碑が建立されている。
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九段会館に話を戻すと、軍の解体とともに、それまで運営していた財団法人「軍人会館」から国に所管が移った。米軍接収の一時期を経て、返還後に日本遺族会が国から借り受け、今の名称で再スタートした。
以来、長い間、結婚式、集会などに利用されてきたが、3年前の東日本大震災で営業停止に追い込まれた。揺れで天井が崩落し、集会に出席していた人の中から犠牲者が出て、捜査の手が入ったためだ。
今も営業は停止されており、再開は困難という。このままでは、会館自体が処分されることになりかねず、そうなれば残念というほかはない。
震災で死者が出たことについては、東京地検が先月、書類送検されていた遺族会元会長ら2人を嫌疑不十分で不起訴とした。こうした動きを受けて、国有財産を管理する関東財務局東京財務事務所は今後、税金を投じて守るべき文化的な価値があるか-などを基準に、存続の是非を検討する。
九段会館の今後については、以前にもこの欄で触れたことがあるが、貴重な歴史の舞台を取り壊してしまうのはいかにも惜しい。そう思うのは筆者ひとりだけではあるまい。
二・二六事件が起きたのは、78年前のちょうど明日だ。