■世界夢見る英語好きバンカラ学生
高知県立高知小津高校に通いながら、太平洋を眺めていると、だんだんと海外への憧れが日に日に増してきて、外交官を夢見るようになりました。外交官になって国益を守るといったような確固たる信念が芽生えていたわけではなく、とにかく世界を見てみたいという純な気持ちでした。
◆一橋大に憧れるも
外交官になるには東京大学法学部に進学しなくてはと思いながらも、なぜか一橋大学に憧れていて、一橋大と東京外国語大を受験したら、東京外大は受かったものの一橋大は不合格。浪人して、再び一橋大を受けましたが、また落ちてしまいました。早稲田大学と慶応大学には合格していたので、もはや一橋大は諦め、貧乏な家庭でしたから慶応はふさわしくはないと思い、早稲田に行くことにしました。
1954(昭和29)年4月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科に入学して、東京・吉祥寺に近い井の頭公園の中の松本訓導殉難の碑のそばにあった土佐寮に入りました。
約20人の土佐っ子ばかりですから、吉祥寺駅まで手ぬぐいをまとっただけの丸裸で太鼓をたたいて踊り歩いたり。バンカラというか、野蛮な寮生活でした。玉川上水がそばでしたから、よく飛び込んでいた自殺未遂の若者たちを救助したりもしました。
家庭教師や野球のスコアラーのアルバイトをしながら、大学4年間、土佐寮に住み続けました。硬派といえば聞こえはいいものの、寮長のとき、マージャンで負け込んで寮費を払えないやつをぶん殴ったり、相変わらず吉祥寺で飲んでは、奥多摩の土木作業員らとけんかもしていました。