【番頭の時代】第2部 「飛躍」を生み出す(2)ジェイアイエヌ・中村豊専務

2015.2.25 05:00

 ■メガネ業界変えた“同志”

 メガネチェーン「JINS」を運営する東京・北青山(当時)のジェイアイエヌ本社。2010年12月、内線電話をとった専務の中村豊は、けげんな表情を浮かべた。相手は社内にいる創業社長、田中仁だった。

 田中は普段、社内電話で連絡するような横着はしない。用件があれば自ら足を運び、直接話をする。いぶかしむ中村に、田中は照れくさそうな声でいった。

 「かみさんから『中村さんにちゃんとお礼をいうように』といわれたよ。ありがとう」

 田中は、国際的な起業家表彰制度「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の日本代表に選ばれた直後だった。「気恥ずかしくて他人に聞かれたくないのだろう」と察した中村は、小声で「おめでとうございます」と祝福した。

 前橋信用金庫(現しののめ信用金庫)時代、7年後輩だった田中が、世界で認められる起業家に成長した。ともに歩んだ9年間、中村は右腕として田中を支え続けた。2人は「メガネ業界を変えたい」という思いで結びついた“同志”だった。

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 「嫌らしい商売だな」

 01年春。中村は経営再建中のメガネチェーン「テレホンメガネ」(群馬県伊勢崎市)の社長兼更生管財人代理として出向し、リストラを進めていた。約200店あった店舗をほぼ半数に減らし、130億円の負債の8割減免を債権者から取り付ける。業務の過酷さ以上に、古い商慣習が残るメガネ業界の体質に、嫌気を感じていた。

 当時のメガネは平均価格が3万円程度。買っても商品が出来上がるまで数日かかり、レンズ価格の決めかたなども消費者にはよくわからない。高く売りつける商売への不満を「これも仕事だ」とのみ込んでいた。

 ふと手にした専門紙で目にしたのが、1本5000円という破格の値段でメガネを売るJINSの1号店を取り上げた記事だった。田中仁という社長の名前には見覚えがある。支店は違ったが元気のいい後輩だった。中村は電話に手を伸ばした。

 「今までのメガネ業界は価格が不透明。これからは安い価格で消費者に提供する時代だ」

 再会した田中の言葉に意気投合し、「一緒にビジネスをしよう」と誓い合った。中村がジェイアイエヌに入社したのは02年1月だった。

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 「商品のできあがりは4時になります。お待ちいただく間、カフェもご利用ください」

 中村が入社した3カ月後。前橋市郊外に業界初の店舗がオープンした。田中が社長、中村が会長を務める新会社が運営する「ジンズガーデンスクエア」は、30種類以上のケーキやパスタが楽しめるカフェと融合したメガネ店だった。

 従業員の多くは中村がテレホンメガネから呼び寄せた優秀な販売員。時には田中も店頭に立ち、来店客の声に耳を傾けた。

 「若者向けの低価格メガネ店は、都心部でなければ成功しない」という業界の常識を打ち破り、栃木県、埼玉県にも出店し、流通大手イオンモールからの要請を受け、全国に展開した。安い製品を提供するという2人の思いは、いつしか「メガネで人々の生活を豊かにする」という大きな志に変わっていった。

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 ■財務手腕と人脈武器に難局打開

 「どうだろう。うちは上場できそうかな」

 メガネ店とカフェが融合した新業態店も軌道に乗った04年、ジェイアイエヌ専務の中村豊は、知りあいのファンドマネジャーに相談した。答えは「イエス」だった。

 中村は前橋信用金庫に勤務していた1989年、家電大手のヤマダ電機の株式公開に携わった経験がある。プライベートカンパニーからパブリックカンパニーへの転換。「そのダイナミズムに興奮した」という中村は、財務担当としてジェイアイエヌの上場を支えることが、己の仕事だと思い定めた。

 ただ、思わぬ所に暗礁が潜んでいた。東証マザーズへの上場を間近に控えた06年年明け。中村は社長の田中仁に電話をかけた。社用車を田中が買い取った際の価格設定に問題がある、という事情で東証が上場に難色を示したのだ。上場審査が厳格になったのは、同年1月のライブドアの粉飾決算事件のあおりだ。

 1年待って再申請するか、市場を変更するか…。田中と中村は悩んだ結果06年8月、大証ヘラクレス(現ジャスダック)に上場した。その後も株価急落や買収提案など、難局は続いた。田中が掲げる戦略を、中村は財務で支え続けた。すべては「人に良いメガネを、手ごろな価格で提供し続ける」という目標を実現するためだった。

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 10年12月10日、中国東北部最大都市の瀋陽市の気温はマイナス30度だった。田中は、瀋陽桃仙国際空港に白い息を吐きながら降り立った。この日はJINSの海外1号店の「JINS瀋陽店」のオープン日。「こんなに寒いところでメガネが売れるのだろうか」と不安になった。

 しかし、それは杞憂(きゆう)だった。日本ブランドの安心感とファッション性が受け入れられ、中国でのJINSの店舗数は40店舗を突破した。進出のきっかけを作ったのは中村だった。

 「一緒に中国へ来てくれないか」

 株式公開を手がけて以来、つきあいのある中村に、ヤマダ電機の創業社長(当時会長)の山田昇がこう声をかけた。ヤマダ電機の海外1号店となる瀋陽店に、テナントを出してほしいとの依頼だ。ためらう中村に、山田は「中国は放っておいても売り上げが10%伸びる」と言い切った。

 「偶然もたらされたチャンスにひょいと乗った」

 田中は当時の心境をこともなげにいう。信金時代に最年少の支店長となり、本店の業務推進課長も務めた中村の力量を、誰よりも信頼しているからこそだ。

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 ジェイアイエヌの本社は現在、東京・飯田橋の高層ビルの中にある。受け付けではメガネをかけた女性スタッフが笑顔で迎え、ショールームには、カラフルでおしゃれな眼鏡が並ぶ。窓からは、皇居や日本武道館が見渡せる。

 「当時は窓を開くと、田んぼが一面に広がっていた」

 中村は入社した02年当時の本社を思い、感慨深げにいう。当時のオフィスは、前橋市内の田中の自宅にあり、中村にあてがわれた部屋は、トイレを改修した3畳間だった。だが、そこには情熱を注げる仕事があった。

 田中という“同志”と出会い、自分の力で会社を成長させるという生きがいを得た。今春からはサンフランシスコでの出店を皮切りに、欧米にも進出する計画だ。

 「グローバルナンバーワン企業となり、メガネの歴史を変えたい」

 壮大な夢に向かって、2人は歩み続ける。=(敬称略)

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 ■番頭の教え

 ◆着想支える“引き出し”持て

 事業計画書通りに物事を進め、成功に導くことができれば、これほど容易なことはない。経営環境が刻々と変化する中では、思いついたことの勝ち目を見極め、即座に実行していくしかない。その思いつきの中にこそ成長の種がある。ただ、社長一人の力には限界もある。「BANTOU」は、社長の着想を支える“引き出し”を持たねばならない。豊富な経験と力量を持つ中村氏の支えがあってこそ、大きなビジョンに沿って進んでいけるのだ。(ビズグロー代表 杉村知哉)

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