昭和59年に子会社のCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント=SME)入社。ネーティブ並みの英語力を生かして欧米アーティストとの契約などを担当した。
大きな転機となったのは、平成7年にソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)に出向し、家庭用ゲーム機「プレイステーション(PS)」の北米展開に携わったことだ。関係者は「畑違いへの異動に『このチャンスを生かすのも駄目にするのも自分次第だ』と話していた」と振り返る。
北米市場での成功が世界的なヒットにつながり、ソニー本社でも一目おかれる存在となる。18年に赤字続きのソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)の社長に就任。PS3の値下げ断行などで23年3月期に5年ぶりの黒字に導いた。
ストリンガー会長の「右腕」として、23年にソニー本体の副社長へと取り立てられたが、社内では「ヒライ、フー?」と揶揄されるなど、子会社出身でソフト畑を歩んできた「異端児」と見なす声も多かった。
「何を言われても動じないタフな心臓の持ち主」。一緒に仕事をした社員らが口をそろえる「強い信念」で難局に挑む。